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昆虫掲示板 : 荒巻さんによる虫屋誕生記 1

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imasaka
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荒巻さんによる虫屋誕生記 1
先に、33年間もの長い間、久留米昆蟲研究會の事務局長を勤められた、荒巻健二氏の訃報をお伝えしました。

荒巻さんは、ご自身の筆になる「虫屋誕生記」を久留米昆蟲研究會會報である「久留米虫だより」に18回に渡って連載されていました。

ここでは、92年も前の昭和初期から、どのような虫屋人生を送ってこられたか、ご自身の言葉で語っていただくべく、数回に分けて転載したいと思います。

なお、ウェブ上に転載して読みやすくするため、特に段落など、原文とはかなり違った構成になっていることをご了承下さい。正しくは原文を確認いただければ幸いです。

原文では紙面の関係でカット以外の図や写真は入っておりませんが、文章だけでは想像できないことも多いので、入手できた関連する図や写真をできるだけ挿入することにしました。

なお、タイトルの頭に「第10回」という語が添えてあるのは、「虫屋誕生記」は森田さんを第1回として、この時点で既に9人の方が自身の「虫屋誕生記」を書かれており、荒巻さんがその10番目に当たるという意味です。

では、まず少年期、荒巻さんがどうやって虫と出会ったか、という部分で、その1から、その4までを掲載します。

第10回虫屋誕生記(その1)

「久留米虫だより No.96 1985. 4. 30 発行」











(カット:各回の文章の頭に添えられているカットは、長らく虫だよりを手書きガリバン印刷で編集・発行されていた、前会長でもあった森田公造氏が描かれたものです)

(少年期)
会員諸氏、知っている人は知っておられるが、俺はお前なぞ知らんぞと言われそうだから、先づは自己紹介から。姓はともかく、名から受けられる感じからもっと若いと思われて、今後お会いした時、がっかりなさらぬため、年令から。1985年現在、なんと60才となってしまった。

7年前、故梅野明氏にまたぞろこの道に引き込まれた時は53才。当時は35才のつもりだったが、なんだかいつの間にやら馬令を重ね、年令だけは「バケツ」一杯喰ってしまった。

勤め人ならとうの音に定年だが、長女と次男の子供、つまり孫が3♂1♀、現在吾家には入院中のご先祖様(当年92才の母)を除くと、嬶左衛門と2人暮しである。

自宅は持家乍ら戦後間もなくの戦災掘立小屋のままである。隣家が新築した時、小生の親友曰く、「お前の家は犬小屋に見える」と。自分では車庫位と思っている。
なにしろ若い頃から「極楽トンポ」と言われて暮らしてきて、当時は「立てばパチンコ、坐ればマージャン、歩く姿は千鳥足」などと言ったが、残念乍ら酒だけは呑めん。

それで酒が呑めれば人生が良すきると誰もが言う。ただし呑めぬから交際なら朝までいつもつき合ったものだ。体格は5人兄弟中一番貧相だったが、大昔の色男で(なぜなら色男は金も力もない)あんまり遊びが過ぎたのでついに家も建てずじまい、否、建たずだった。随分と前口上が長くなった。

出生の地は久留米市東町、現在の東町公園で、当時の三井電鉄通りで、この電鉄は母方の祖父が土木および電気主任として赴任建設したものだそうだ。大正2年と聞く。

思えば当時より半世紀以上の歳月が流れたが、今も変らぬ思い出は、男の子としてやはリセミやコオロギ・バッダ採り。特に強烈な想い出は、市内を貫流している当時の番所の川(現・池町川)沿いのギンヤンマ釣りで、♀さえ1頭採れば♂は何頭でも採れ、その鮮かな美しさは幼年期の最高の楽しみだった。

近所には物心ついた頃からの友人、田中健次君が在り、彼は終生、後の梅野昆虫研究所に出入していた。虫採りは彼といつも2人で、現在の明治通りを渡る折など、まだ幅員の狭かった道はセミ採りの長竿は太い物千竿をつないで2人でかついで横断する毎に、通行人と自転車は立止まって、吾々が通り過ぎるのを待ってくれるという良き時代だった。

幼少年期ながら「卜リモチ」ではセミの翅が痛むのを知って、女郎グモの巣をみつけてその糸を役立てたり、蛹を採集して家の網戸棚に入れ羽化するのを深夜まで見たり、夏は家中セミだらけで騒々しかったのを思い出すが、両親に虫の事でおこられたことはない。

近所には同年輩の同級生や上下級生も多勢いたが、昆虫と名のつくものに異常な執念をもやしたのは彼田中君で、1ヶ月だけ年長の彼に引づられた型で、もっとも親しかったこともあり、遂に友人から2人共昆虫キチガイの仇名をつけられた。

幼年期、小学生4年の頃、もっとも忘れえぬことは、同じ東町に吾々の家より直線距離で200m位の所に、私立梅野昆虫研究所が設立されたことだったろう。小さな狩であったろう2人の虫キチガイは、この赤煉瓦2階建で併設した工芸部を持ったこの建物は何んだか近よりがたかったが、そろそろただ株るだけではあきたらなくなった私達を引つけた。研究所の現在地は今の一番街、当時名家だった梅野家の玄関前にあり、桜の古木が2本植えられていた。

併設された工芸部に出入し、部の係りは梅野氏の奥様の実弟、渡辺重光氏、当時の久留米中学(夜間)第1回生で3才位年長、採集用具はここでぼちばち揃えたが、何せ1日の小使いが2銭で、全く貰えない友人もいたくらいだから仲々そろわぬ。桐の小型標本箱が1円、紙で30銭だった。ほかに、針、毒瓶、平均台、捕虫網など、最少限度買ったが、当時高価だった三角ケースが買えず、展翅板等は自分で作った。

今でも思いだす捕虫網は椎材の木丸柄に寒冷紗または亀甲沙の網、竹製の輪で、その後台湾製を会員がら貰ったが、少年期使ったものと全く―諸で、もっと頑丈で、ていさいもよく、網も道具も台湾製のお粗末には一驚した。

当時、同研究所は、所長梅野氏は20才台の後半、第一助手の山内喜三郎氏は旧制久留米商を卒業されたばかりで17才位、他に上記の渡辺氏、展翅展足専門の女性助手前田通子さん、台湾に渡り採集に専念されていた梅野氏の同級生で、大学時代に学生結婚され夫婦で助手をつとめられた平貞市さん・・・等のメンバーだった。
《つづく》

(研究所の桜の木の前で、左:梅野所長、右:山内氏・・梅野昆蟲研究所報告第3号より)
























第10回虫屋誕生記(その2)

「久留米虫だより No.97 1985. 7. 1 発行」








(カット)

昆虫と名のつくものは目に入り次第なんでも採集していた。遠足や氏神様の祭礼日、水天宮のお祭等の時は20銭から50銭位の小使いを貰ったが、そのすべてを虫の資金とし、足繁く工芸部に出入したせいか、或る日研究所の在庫標本を見るチャンスが訪れた。

渡辺・山内両氏の案内説明で、引出式整理棚に収納されたドイツ型標本箱は上下階に天井に届く迄あったが、その箱の数は記憶にないが、標本数は三角紙入り共40余万点と後年所長より聞いている。

内容は台湾産が主でもっとも多く、南西諸島、旧満州、朝鮮、全中国のもので、特に今でも目に焼きついてついてはなれないのは、蝶ではコウトウキシタアゲハ、ルリマダラ、甲虫では大型のカミキリムシや、カブトムシ、美麗なカナブンの仲間だった。

見事に展翅展足されている標本を目の色変えて眺めているうち、突然、田中君が「僕は蝶を集めるぞ」と叫ぶように言う。いつも対抗心を燃していた小生は、行きがかり上でもあったし、今に思えば少しキザだが、立体的で男性的な甲虫に心をかたむけたのか(少年期ではこのような不遜な気があった訳ではないが)蝶は標本箱が沢山いり、展翅はどうも苦手だった。

鱗翅目の専門だった梅野氏は山内氏を甲虫の専門家にされる為努力されておられ、そのため、その後常に山内氏の腰巾着のようについて廻った。蝶と蝶以外は何でも手当り次第に挑戦した。ゴキブリ・ハサミムシ・シミ・カマドウマ・アリ・ハチ、片っぱしから採っては標本にしていた。

蝶を集め出した田中君は標本箱を増す度に四苦八苦、「ザマァ見ろ」と思った。一年程して大工さんに当時ガラス式差込式の小型標本箱を彼の父から資金を出して貰って100ケース程作り、私は30ケース程頒けて貰った。この箱は彼は疎開して標本を戦災で焼かなかったためか、現在でも彼の遺品として5ケース残って居り、捨るに忍びず今でも利用している。

この中で後年迄彼が笑いの種にしたのは、小生宅の犬から採集した五角台紙に貼り付け、犬ノミと書いた標本だったろう。でも私は昆虫には違いないと言ってゆずらず大まじめだった。蝶は全く採らなかったが、近郊高良山には昼間多数に採集されたサツマニシキだけは標本にしたが、戦後しばらくして全く見かけない。

秋ともなれば直翅目を採集し、冬は至る処にあった塵捨場でゴミムシ採集に、愛称を「キーチャン」と言った山内氏に助手よろしくくっついて廻った。

この翌年も春が訪れると、今度は毎日曜日や放課後、田中君と2人で毎日のように近郊の高良台地、高良山を訪れた。勿論少年期でもあるし、昔の事でそう採集法が進歩していた訳ではない。花を訪れる甲虫類、夏場の樹液に吸蜜する昆虫類、飛翔する虫、腐肉採集のシデムシ等が主な採集品だったが、思い出すとよくあきもせず何んでも採集したものだが、生来の不器用、蝶の標本は1点も作らなかった。

(昭和25年の荒巻さん:左と、田中さん:右、中央の女性は不詳、写真はKORASANA(59)1991 故梅野明氏所蔵の甲虫類(I)についての荒巻さんによる「追記」の付図p8による)













渡辺氏はすぐ上の兄チャン、山内氏は年のはなれた長兄といった感じだったが、所長の梅野氏は30才前とは言え、重厚で眼光鋭く、ズングリ・ムックリ、講道館柔道四段の猛者、一見近よりにくかったが、話せば全くの久留米弁丸出しのオッチャンだった。やはり近々と話をするようになったのは、戦後吾々が成人に達してからのことで、風貌と気性からはうかがい知れない細かな気づかいは忘れられない。

研究所と工芸部のキャッチフレーズは「趣味と害虫駆除」で、この夏休み前、所長に突然呼ばれ、吾々の熱心さを買われた所長は2人をアルバイトの年少所員としてやとわれた。小学五年生の前半だったこの時の感激は子供心に天にも登る気分だった。

渡辺氏共々工芸部の3人の仕事は、販売は渡辺氏、2人の仕事は捕虫網の組立、三角ケースのコンプレッサーでの塗装、五角台紙の製作ほか、雑用とデパートに卸す値段表作りとスタンプ押しで、注文があれば山内氏が福岡岩田屋まではこばれた。その時のようすは、唐草模様の大風呂敷に大荷物を包み、両手にまた品物包みを持ち、よくあんな格構で電車に乗れたもんだと思われた。

一度などみんなの前で荷物を背中にしょったまま尻餅をつき、「所長、こんな格好で倒れたら一体どうなるんでしょ。」といわれて足をバタバタされたので、一同腹を抱えて笑った。

昭和11年、小学6年生、あいも変らず正源寺山(現競輪場)・大学山・吉見岳・兜山等は吾々の好採集地だった。その年の夏、少々近郊の山ではあきたらなくなった吾々は、研究所のアルバイトの資金で、当時からの好採集地といわれた若杉山か宝満山、または英彦山の採集を思い立った。

当時で言えば一泊二日の行程は大旅行だった。7才年長の後年小生の長兄の海軍同期となり、山内氏と正源寺山のオオクワガタを九州昆虫同好会々誌に発表された、秋山金三氏をリーダーに採集行を思い立った。

(つづく)


第10回虫屋誕生記(その3)

「久留米虫だより No.99 1985. 11. 発行」







(カット)

半世紀近くもまえのことである。当時の英彦山へのコースは当然記者、バスの便しかなく、国鉄久留米駅から鹿児島本線を原田まで、筑豊線で飯塚へ、後藤寺線で現在の田川まで、まだ全通していなかった日田彦山線で添田経由、往時の終点彦山駅へ、バスに便乗して登山口まで、到着するのに相当な時間がかかった。

途中下車して櫟林に入り、ミヤマクワガタなどを蹴り落し、採集しながら旅館に到着した。この夜おそくまで夏の終わりを惜しむかのような賑わいだった店の灯火に来ている虫を採集、当時大流行していた「男の純情」の歌がくり返しくり返し流れていた。

早朝、旅館を出発、徒歩にて往路を住吉神社から豊前坊を登坂、鎖づたいに北岳へ。この急坂の思いでは、後年1982年春、むし社の藤田宏氏・会員岩橋氏ほか1名の4人でルリクワガタ採集行で何十年ぶり登ったが、この時も鎖があった。

採集しながら北岳で小休止後英彦山山頂 1199.6Mへ。少年期のことで身も軽く、全く疲れた記憶が無い。鬼杉から玉屋神社へ向かったと思うが、途中下界を見下しながらとった昼食は梅干弁当に沢庵のお菜だったが、こんなに旨い喰物はないなと感じたことが今も鮮明に思い出される。多分南岳山頂であったろうか。

思う存分採集に駆け廻り疲れを知らぬ2日間だったが、8月も終わりに近く、多くの種類は望めなかったが、足で蹴ればいくらでも落下したミヤマクワガタや、久留米地区ではめったにお目にかかれないアサギマダラの飛翔する優美な姿、採りそこねたら天空高く舞い上がってしまったことなど、初心者の吾々は新鮮な思い出だった。

話が前後して申し訳ないが、今の年の夏休みの研究所のアルバイトのうち、久留米地区ただ一つのデパート旭屋(現・井筒屋)への採集用具・販売標本・その他の搬入は田中君と小生の2人の仕事だったが、近いとは言え徒歩で運ばねばならぬため、いくらも持てない。

各家庭に1台程しかなかった自転車は親からは貸して貰えず、また借りた処で23吋(インチ)もある大人用では股入れといった乗り方しか出来ないので荷物が運べない。梅野家にはなぜか自転車が無かった。

何回も何回も運搬せねばならぬので往生していた時、所長がある日、長男一明君の乳母車で運べとのこと、これには閉口した。天皇陛下の命令みたいなもので厭だとも言えず、渋々実行したが、近所の悪ガキ共や町内の遊び仲間の上下級生、同級生に会えば、またぞろ「昆虫キチガイ」に加えて何んと言われるかと思えば、気もそぞろ全速力で乳母車を押したり引いたりして運んだが「体裁がみっとも辱しい」と思った事始めだったかもしれない。後年何年かは街で乳母車を見る度にいやーな気分がしたものだった。

昭和10年に発行された梅野昆虫研究所報告は、第一號62頁、第二號66頁、豪華なアート紙印刷で、この時期この2冊を頂戴し、戦争末期疎開していたタンスの中にあり、私の昆虫関係蔵書No.1、No.2となっている。当時の販売価格 両書とも1円50銭、少々長くなるがしばらく引用させて頂く。

(梅野昆蟲研究所報告)




















一号では鞘翅目として下記の記述がある。斑猫・鼓豆・穀盗・吉丁蟲(以下蟲は虫と書く)・叩頭虫・天牛・偽天牛・黒艶虫・鍬形虫・金亀子・象鼻虫・長角象虫・歩行虫・偽歩行虫・水頭水虫・隠羽虫・龍蝨・埋葬虫・出尾蕈虫・閻魔虫・大木吸・出尾虫・瓢虫・偽瓢虫・牙虫・金花虫・花蚤・圓花蚤・番死虫・朽木虫・偽葉虫・櫛角虫・薄葉蛍・大花蚤・赤鞘虫・蛍・等々と甲虫を漢字で書いてある。

年配の方は全部解られるだろうが、若い方はすぐには何の虫かと思われるだろう。何だかクイズめいているが、小生等は今の感字の時代と違って漢字オンリー、大真面目で覚え、ラベルもこのように「科」を書いた。

ついでに二号には台湾恒春郡の昆虫調査報告として、このほかの科に、小蠧虫・尾蕈虫・大蕈・鰹節虫・郭公虫・偽吉丁虫などとあるが、大分県津江村の報告では、科はひらがなとなっている。

吾々戦前派は昆虫はあくまで「昆蟲」であり、理屈でなく漢字は一字一字意味があり、蝶・蛾・虻・蜂・蝉・蚊・蠅・蟻・蟷螂・蝗・蜻蛉・蚤・螢・など。昆虫の字はすべて「カナ」となり、残っている漢字は「蚊」だけという。蟲はすべての昆虫を指し、虫は他の生物をいうのだそうだ。話がすっかり理屈っぽくなって申訳なし。この機会に今しばらくこの研究報告を続けさせて頂くことにする。

{今坂註:斑猫(ハンミョウ)・鼓豆(ミズスマシ)・穀盗(コクヌスト)・吉丁蟲(タマムシ)・叩頭虫(コメツキ)・天牛(カミキリ)・偽天牛(正しくは擬天牛:カミキリモドキ)・黒艶虫(クロツヤムシ)・鍬形虫(クワガタムシ)・金亀子(コガネムシ)・象鼻虫(ゾウムシ)・長角象虫(ヒゲナガゾウムシ)・歩行虫(ゴミムシ)・偽歩行虫(ゴミムシダマシ)・水頭水虫(正しくは小頭水虫:コガシラミズムシ)・隠羽虫(ハネカクシ)・龍蝨(ゲンゴロウ)・埋葬虫(シデムシ)・出尾蕈虫(正しくは尾蕈虫:デオキノコムシ)・閻魔虫(エンマムシ)・大木吸(オオキスイ)・出尾虫(ケシキスイ)・瓢虫(テントウムシ)・偽瓢虫(テントウムシダマシ)・牙虫(ガムシ)・金花虫(ハムシ)・花蚤(ハナノミ)・圓花蚤(マルハナノミ)・番死虫(シバンムシ)・朽木虫(クチキムシ)・偽葉虫(ハムシダマシ)・櫛角虫(クシヒゲムシ)・薄葉蛍(ベニボタル)・大花蚤(オオハナノミ)・赤鞘虫(アカハネムシ)・蛍(ホタル)・小蠧虫(コキクイムシ)・尾蕈虫(デオキノコムシ)・大蕈(オオキノコムシ)・鰹節虫(カツオブシムシ)・郭公虫(カッコウムシ)・偽吉丁虫(タマムシモドキ)・蝶(チョウ)・蛾(ガ)・虻(アブ)・蜂(ハチ)・蝉(セミ)・蚊(カ)・蠅(ハエ)・蟻(アリ)・蟷螂(カマキリ)・蝗(イナゴ)・蜻蛉(トンボ)・蚤(ノミ)・螢(ホタル)}

次に、この号に昭和10年5月の福岡県蟲の會の高良山採集会の記事がある。江崎悌三・同ハル子・安松京三・野村健一・旧制中学時代の紅顔の美少年西村五郎・ほか15名(敬称略)の寄せ書と、研究所前での全員の記念写真が載っている。

(採集会寄せ書き・・・以下の写真も同様に梅野昆蟲研究所報告第2号より)























(採集会集合写真)

















(梅野明所長)
















(山内喜三郎第一助手)












(江崎悌三博士)
















(西村五郎氏)











この写真を見る度に思い出すのは、中学時代の西村氏らの標本ラベルは当時から活字だったようで、吾々の手書きより数段格構よく、随分とうらやましかった。同研究所主催の採集会は昭和10年10月13日であり、これが初回で、展覧会は第一回を同年9月、金文堂書店3階で挙行、この催しは市内最初であったためか、入場者は3日間で12,162名と記録されている。同年には第18回昆虫慰霊祭が行われ、梅野氏個人の時より挙行され、5年毎には盛大に施行されていた。

3号以下には各同好者の主なる研究所来訪者として下記の名がある。矢野宗幹・神谷一男・澤田玄正・大石貞俊・中尾慎吉・箕浦忠愛・織田富士男・山本太郎・松村松年夫妻・牧良忠・岩田正俊・河原勇・中村豊次・永井亀彦・掘浩・伊藤寿人(敬称略)。研究所南側で桜花の満開時、赤煉瓦の建物と桜を背景に所長と山内氏の姿あり。

昭和11年9月、第2回昆虫展には所長と山内氏のすすめにより、誰の手も借りずに製作した標本を小生は甲虫を主として10ケース、田中君は蝶を15ケース、唐草模様の大風呂敷に包んで両手にさげて持込んで出品、前回に書いた山内氏なら背中に泥棒よろしく背負ったから、「東京ボン太」だが、僕等はそうではない。家出少年だ。

数のせいか、見ばえのせいか、田中君は小学生の部で特選、小生は準特選となった。賞品はカブトムシの横向きをあしらった角メダル。特選は虫のところが金色、準特選は全体が洋銀、各1名、入選は銅メダルで3名だった。ほかに副賞として本立、ミカドアゲハが入ったガラスの文鎮や文房具だったが、何より嬉しかったのはメダルで、何だか勲章を戴いたようで、その後飽きもせずに取り出しては眺め入っていた。

標本としては近郊のものばかりで大したものはなかったが、ただ1頭赤い丸印を貼られたのは九州では珍品であるクロカタビロオサムシだったろう。蝶は標本にしなかったものの、現在では考えられないが、メスグロ、クモガタ、ミドリ、オオウラギン、オオウラギンスジ、ウラギンスジの各ヒョウモンチョウは高良山、耳納山では普通に採れ、テングチョウは極めて少なかったようだ。蛾のサツマニシキは昼間活動性か、現在の登山車道2合目付近で多数生息していた。

(つづく)

第10回虫屋誕生記(その4)

「久留米虫だより No.100 1985. 12. 30 発行」











(カット)

昭和12年7月、日支の風雲急を告げ、子供心に戦時体制となったのを感じた。翌13年、梅野所長は後時を山内氏に託され、北支派遣軍奏任官待遇軍政官(宣撫班)として渡支、鮮・満・支語に堪能な氏は旧満州国最高理事である叔父梅野実氏(戦後、久留米市名誉市民)の後援もあり、現地軍より現地の人人に慕われ親しまれたそうだ。

報告第6号は山内氏発行となっており、氏が出征直前出されたハガキの文章に「研究所は一時、蛹の状態にして・・・」との名文句は忘れがたい。

病身だった小生の父は長兄を東京から呼び返し家業をつがせていたが、甲種合格で13年1月佐世保海兵団に入団した。貧乏だった小生宅は学資のいる旧制中には進学させてもらえず、旧高小2年卆業後も希望した当時の鉄道省工手学校へも行かせて貰えず家業をつぎ、夜間中学入学も止められて、後年幾10年後悔したものか。

昔は赤貧の家庭は親の言うまま個人の希望など全く無視されたものだ。その腹いせか、研究所にはしょっちゅう出入りし、山内氏には日曜日毎にくっついて廻った。

16年9月、佐世保海軍工廠造兵部に徴用された。工員軍属であるため身分は拘束され、旅行は家族の不幸、それも両親の死亡時のみ帰郷が許されるという厳しさ。軍港ゆえに下界を見下す登山禁止、デパートの屋上さえも閉鎖されていた。

ここでも学歴のない悲哀を味あわされ、翌年受験して佐世保2中の夜間部へ入学当時の思い出は、海軍の街ゆえの「ゲートル」でない白い脚絆だったことと、毎日午後7時までか10時まで週1回の未定徹夜残業をまぬかれたことだった。

満足な食事が与えられなかったせいか、育ち盛りを毎日ひもじく栄養失調気味で3年半も暮らしたせいか、男5人兄弟のうち一番チビで貧弱な体格、今でも貧血で喰い物の夢を時時見る。喰い物の恨みは空恐ろしい。今でも食事が遅れると家ではすぐ「めし、めし」とやかましく叫ぶので、家内からはすぐ殺気立つと笑われ、早飯の大喰い、外出すると数時間で「腹へった」と繰り返すので、友人からはお前の腹はいつも高校生並みかとからかわれている始末である。

在佐世保時代は終戦の年の春までつづいたが、虫の採集どころではなかったが、そのうち要領ばかり良くなって隔週おきの休みではあったが帰郷して腹一杯に喰えるのを楽しみに2ヶ月に一度位は故郷に駅での巡邏(海軍の憲兵)を胡魔化して帰った。好きで入廠した処ではなし、最後まで最下位の2等工員で終った。

当時、梅野氏は帰郷され、旧制南筑中学に生物教師として奉職され、山内氏は閉鎖された研究所を後に渡満され、その後現地で応召された。御2人からは時時便りを頂いていたが、虫が採集できる時代でなく、在郷中に御両人に指導された切手蒐集には専念していた。船員の伯父、薬剤師の叔父のものも頂き、これには他人の追随を許さぬものもあった。今のように「ヒンジ」がいらないような冊子を発明されたのは梅野・山内両氏で、当時特許を取られたのを、この最、虫に関係ないが特筆しておく。

時折帰郷しては標本の整理をしたり、梅野家を訪れた。氏は入校早早「スッポン」と仇名をつけられ、教え子は、最長学年に県議原口久人氏、久留米市助役吉山武氏、最若年に市立津福小学校・本会会員・村上明氏などがおられ、当時の卒業生は私とほぼ同年輩で、私の友人で後年誰一人「梅野先生」と言った者はいない。この仇名は後年氏に望まれて会に入会した折、そのいわれを直接たずねた。

長くて暗い少年期は昭和20年の5月私の海軍入隊で一応の終止符をうつ。少少つらくはあったが、飯が充分に喰えるのが何より嬉しく、毎日は訓練どころか防空ごうの穴掘りが多く明け暮れ、わずか数ヶ月、千葉県館山航空隊で終戦、後輩は我我の後一人も入隊せず、2等整備兵での勤務だった。

9月下旬復員帰郷。一部破壊された筑後川鉄橋を徒歩で渡り、久留米駅に立つ。見渡す限り一望の焼野原、高良山が間近く見える。実家に近づくと焼け残ったと見間違えたのは西町広又で、東町広又(現・東町公園一帯)は一軒残らず焦土と化していた。

田中君は陸軍歩兵伍長(中央大学予科より19年、旧48歩兵隊入隊)で幹部候補生、在宮崎県の海岸地区で終戦、解隊後10月中旬復員、偶然、彼が帰郷当日、国鉄久留米駅で声をかけられ、甲種合格の体躯はどこへやら、痩せて顔中真黒け、瞬時誰だかわからず、やっと本人と確認、大笑いとなったが、聞けば宮崎地区で腹のへり通しの一年間で、「牛蒡剣」が竹製で竹鞘、歩兵銃が分隊に2・3丁との話で驚いた。

もっとも、この年近郊の豪農の倉庫廻りを米軍の上陸用舟艇で行った時、各地に機銃、歩兵銃、弾薬、その他が温存され、それを押収して焼却したことがある。彼等は無蓋貨車で延延と長旅をゆられ、機関車煤煙で身体中「スス」だらけになっていたのだ。2年余り振りの再会であったろうか、嬉しくておたがい思わず手を握りしめた。

梅野氏は兵役を鹿児島ですごされて復員されたと聞き、田中君共共訪ねた。三者共同じ東町であつたが、私宅も田中君も自宅が空襲で全焼、研究所は外壁の赤煉瓦も横の桜の木も残り、母屋は焼失しているものの隠居家が一棟残っていた。氏は大そう喜ばれたものの、研究所に案内されて驚いた。空からの焼夷攻撃のため屋根が落ち、瓦礫の山、40余万点と称された主として鮮満、支、南西諸島、台湾等の全標本は全く烏有に帰していた。

小生の標本は疎開して焼失しなかった田中君共共また採れば良いというしろ物ではない為、その後、特に旧中華民国・満州・朝鮮などの標本は惜しみて余りあり、折にふれて残念がられていた。

氏の情熱が急速に薄れられて、戦後ほとんど虫のことを発表されなかったのはこのせいではなかろうか。これらは記録として残されておらず、文献として全く発表されていない。

ただ救われるのは、渡辺重光氏が病躯をおして少しずつ運んで疎開されていた良山文庫と名付けられ、梅野昆虫研究所所蔵と印された文献2万余点は被災を免かれ、氏の没後、戦後の標本111ケース共共、遺族により久留米市に寄贈され、現在市の文化部文化財収蔵庫に保管されている。

奥様、御長男一明君、渡辺氏の御三方は終戦前後、相次いで病没され、山内氏は旧満州の地で応召後、戦病死。平貞市氏の妻女は台湾にて客死、平氏は病没。研究所の再開は無理となったが、標本道具を疎開して焼失しなかった田中氏はしばらくの休眠状態をのぞいて、再びまたぞろキチガイよろしく採集を再開した。その後、戦後の混乱期がつづく。私はほとんど虫とは無縁の年月が経過した。

次回からは、一ぺんに30有余年の歳月が飛ぶが、これでも勿論、紅顔の美少青年であった年もある。いきなり爺ィになった訳ではない。



(今坂記:上記のように荒巻さんが虫屋になられた最大の原因は、すぐ近くに虫友の田中健次さんがいて、互いに刺激されて虫を始められたこと、そして、当時、国内でもトップレベルの虫の知識と標本が詰まった梅野昆虫研究所がすぐ目の前に存在したことがあると思われます。その梅野昆虫研究所報告には、数々の重要な論文が掲載されているので、個人的に気になった論文の紹介をしておきます。)

○梅野明, 1936. フィリピン亜地方系昆蟲に依る台湾及八重山群島の成立に関する考察[予報]. 梅野昆蟲研究所報告, (3): 15-25.

(チョウを主材料とした八重山地方の生物地理学的考察、フィリピン系要素を強調)

○梅野明, 1937. 九州の蝶類. 梅野昆蟲研究所報告, (4): 1-57.

(琉球を含む九州産蝶類124種の記録と生態・分布等、疑問種10種についても記述、チョウの写真も多数、九州周辺の離島のチョウ相についても言及、関連文献310編も引用。多分、この時点での九州産チョウ相についての最も詳しい総説ではないかと思います。)

(この報告で、久留米昆蟲研究會会誌KORASANAのタイトルとなっているナガサキアゲハ♂異常型 Papilio memnon mela ab. korasana Umenoを記載されています。)

(ab. korasana ♂・・・梅野昆蟲研究所報告第4号より)

















○山内喜三郎, 1935. 台湾恒春郡の昆蟲調査報告(一). 梅野昆蟲研究所報告, (1): 27-39.

(台湾南端部の甲虫60種の記録、ハンミョウ、タマムシ、ゲンセイ、カミキリ、クワガタ、コガネなどの各科)

○山内喜三郎, 1935. 台湾恒春郡の昆蟲調査報告(二). 梅野昆蟲研究所報告, (2): 27-39.

(台湾南端部の甲虫の49種の記録、テントウ、ガムシ、ホタル、コメツキ、ゴミムシダマシなど)

研究所のメンバー以外に、当時のトップレベルの昆虫学者の論文も掲載されています。

○Chujo, M., 1935. Beitrag zur Kenntnis der Chrysomeliden-Fauna von Kyushu, Japan. Bull. Umeno. Ent. Lab., (2): 13-15.

(久留米・英彦山産を中心に九州産ハムシ65種の記録)

○Chujo, M., 1936. Chrysomelid-Beetles from Corea, collected by Messrs. A. UMENO and K. YAMAUCHI. Bull. Umeno. Ent. Lab., (3): 7-14.

(朝鮮産ハムシ31種の記録、以下の朝鮮産2新種の記載あり)

Cyaniris coreana Chujo sp. nov. (Corea-Mt. Kin-uzan, Keishohokudo)
Pachneophorus squamosus Chujo sp. nov. (Corea-Hokusammen, Keishohokudo)

○Chujo, M., 1938. Beitrag zur Kenntnis der Chrysomeliden-Fauna von Kyushu, Japan.(2). Bull. Umeno. Ent. Lab., (6): 5-13.

(九州産ハムシ30種の記録、九州産1新種の記載あり。タケトゲトゲの原記載がこの雑誌に載っていることを、今回初めて確認しました。)

Dactylispa issikii Chujo sp. nov. (タケトゲトゲ あるいは、イッシキトゲハムシ) (Berg Kirishimayama, Hyuga, Kyushu)

(タケトゲトゲ付図)

















○河野廣道, 1936. 梅野昆蟲研究所所蔵の甲蟲類(I) 赤翅蟲科・地謄科,大花蚤科. 梅野昆蟲研究所報告, (3): 1-6.

(朝鮮・台湾を含む国内産アカハネムシ科8種、ツチハンミョウ科11種、オオハナノミ科1種の日本語による解説と記録、台湾産アカハネムシ2新種、九州産オオズヨツボシケンセイの新種記載はドイツ語、台湾産アカハネムシはそれぞれ、梅野氏と山内氏に献名されています。)

Schizotus yamauchii Kono n. sp. ヤマウチアカハネ (台湾-Berg Taihei)
Pseudopyrochroa umenoi Kono n. sp. ウメノアカハネ (台湾-Numanohira)
Megatrachelus megalocephala Kono n. sp. オオズヨツボシゲンセイ (九州-Fukuoka)

○河野廣道, 1937a. 梅野昆蟲研究所所蔵の甲蟲類(II) 郭公蟲科・大木吸科. 梅野昆蟲研究所報告, (4): 58-60.

(樺太・朝鮮・台湾を含む国内産カッコウムシ科19種とオオキスイ科ヨツボシオオキスイの記録)

○河野廣道, 1937b. 梅野昆蟲研究所所蔵の甲蟲類(III) 擬天牛科・頸長蟲科. 梅野昆蟲研究所報告, (5): 1-14.

(樺太・朝鮮・台湾を含む国内産カミキリモドキ科32種の日本語による検索表を含む解説と記録、クビナガムシの記録。琉球産カミキリモドキ2新種記載はドイツ語。
奄美大島産は梅野氏に献名。奄美大島産カミキリモドキにウメノの名前のつくものがあるのは知っていましたが、当會初代会長の梅野氏に献名され、さらに原記載が梅野昆蟲研究所報告に載っていることに初めて気がつきました。)

Xanthochroa umenoi Kono n. sp. ウメノカミキリモドキ (奄美大島-Nase, Misato)

(ウメノカミキリモドキ付図)

















Alloxacis geniculata Kono n. sp. ヒザグロフトカミキリモドキ (沖縄-Ishigaki)

(ヒザグロフトカミキリモドキ付図)

















○Kono, H., 1937c. H.Sauter's Formosa-Ausbeute:Curculionidae, Alcidini. Bull. Umeno. Ent. Lab., (5): 15-16.

(台湾恒春産アシナガゾウムシを新種記載、この種も梅野氏に献名)

Alcides umenoi Kono n. sp. ウメノアシナガゾウムシ (台湾-Koshun)

(ウメノアシナガゾウムシ付図)

















以上のように、梅野昆蟲研究所報告は、1935〜1938(昭和10年〜昭和13年)に6号が発行され、新種記載されたものだけでも9種に上り、このうち、梅野氏に3種、山内氏に1種が献名されています。

その他にも重要な文献が多数掲載されており、当時としては、国内でも有数の昆虫学研究の拠点の1つであったことが窺えます。

研究所が、太平洋戦争末期に、標本もろとも空襲により灰燼に帰したことは、その後の日本の昆虫学の発展にとっても、大きな損失であったことは確かであると思います。

荒巻さんは、田中さん、梅野さんの死後、自身が唯一の「梅野昆蟲研究所」の生き残りという自負があったように思われます。