今坂正一の世界
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大塚さんの風呂敷包み

今坂正一

2007年5月19日、熊本県の昆虫相解明に心血を注がれた大塚 勲(おおつか いさお)さんが亡くなった。私は所用で葬儀に参加できなかったので、後日、奥様をお訪ねして、四方山話をしてきた。

大塚さんは、九州でも指折りの名物虫屋で、いわゆる「肥後もっこす」を絵に描いたような人であった。熊本県産の全昆虫を対象に採集、記録、会誌の編集を続けられ、主幹として発行された熊本昆虫同好会報は1955年5月の創刊号以来、2007年3月の53巻1号(通算144号)まで、のべ5000ページ以上にのぼる。氏の目的は唯一つ、熊本県産昆虫相解明に尽きており、熊本県以外の昆虫についての報告はごく少数であった。

大塚さんと言えば、学会等ではネクタイ・背広姿で、肩掛けカバンを掛け、両手に縦長の風呂敷包みを抱えた姿を、すぐに思い浮かべる。風呂敷包みの中はインロー箱3-5個が重ねられており、あっちで蛾の先生、こちらでハエの先生というぐあいに、専門家をつかまえては、中を開けて同定をお願いし、あげくは箱ごと預けられている姿が目に浮かぶ。機会が有れば、日本国中、学会に出かけていって、これをやられた。学会に出てこられない先生の所には、研究室や自宅に出向いてお願いされた。虫の大家と言われる人で、家まで押しかけられて、標本を預かったことが無い人は少い、というのがもっぱらのうわさである。大塚さんの記録は、大部分がこうした専門家による同定を経た記録で、その記録の量と共に、正確さでもピカ一であったと思う。

大塚さんと何時知り合ったのかは憶えていない。多分、30年近く前、毎年暮れに大阪の自然史博物館で行わている甲虫学会か、九州内での学会等でお近づきになったものと思う。

1982年3月には、共著で、北九州の昆蟲に「日本未記録のハムシについて」を書いているので、それ以前と思う。この年には、5月11日に初めて大塚さんに五家荘の葉木に案内して頂いている。次いで、6月15-22日には下甑島に採集に出かけ、その帰りに熊本市の大塚邸に泊めて頂いて、五家荘の白鳥山林道への採集案内を懇切丁寧に教えて頂き、翌日は五家荘の民宿に泊まりこんで、白鳥山周辺での採集を堪能した。
この機会が、私のいわゆる九州脊梁採集デビューで、それまで細々と採集してきた長崎・佐賀の山とは、スケールも虫の量・質とも桁違いの熊本の山々に夢中になった。1982年の五家荘の葉木の採集記録を皮切りに(熊本昆虫同好会報(28)1)、1996年の熊本県のジョウカイボン科のまとめまで、大塚さんの奨めもあって都合9編に渡って、熊本の虫の報告を書いている。白鳥山周辺、白髪岳、椎矢峠など、今はほとんどの虫屋が知っている採集地も、そのつど、大塚さんから紹介され・案内して頂いて初めて知った場所である。

また、正月休みなど、大塚さんは、有明海をフェリーで渡って対岸の島原市の実家まで、よく先に書いたようなスタイルで通ってこられ、船着き場まで送り迎えをした。多い時は、10箱をデンと据えて、帰りのフェリーの時間までに、全部を同定しろと言われた。私は、とにかく大汗をかいて、解りやすいものから図鑑を片手に、片っ端から和名を述べ、それを大塚さんが細かく切った紙に書き付けて、同定ラベル代わりにピンに刺していく。母が出してくれる昼食もそこそこに、お茶を飲む時間も惜しんでやり続けても、当然、時間までに半分片づけば良い方で、残りは預かって後日ということになる。こうしたことが、何年か繰り返された。

さすがに、久留米に移ってきてからは、訪問されることはなくなったが、代わりに、小箱に4-50頭詰められたものが、ここ1-2年はキッチリと、1ヶ月に1度届き、同定ラベルを付けて送り返す、という作業を繰り返してきた。
最後の手紙と標本は、5月の連休くらいに届いた。春の調査時期でバタバタしていたこともあり、とりあえずお手紙を拝見した。お手紙には、「今年は昼間に1回、夜間2回採集しただけです。」と書かれており、あいかわらず夜間採集も、なじみの個人タクシーの人を運転手に出かけられていたらしい。

そんな中、突然の訃報を聞いて信じられなかった。後に、奥様から伺ったところ、あの手紙と標本は、入院されてから、奥様に指示されて送られたそうである。預かった標本は、お参りした際、同定ラベルを付けて持参した。

奥様の恵美さんによると、カゼか肺炎のような感じで、医者に行くときも、一人で歩いて出かけられたそうである。医者の診断は、原因不明ながら、急性の肺炎と言うことで、日に日に肺の機能が低下し、2週間ほどで亡くなられたらしい。「防虫剤や殺虫剤などが原因ではないか?」との奥様のお話だが、70年余り使用して来られた上での発病は、なかなか考えづらい。

持参した標本をともかく標本箱に収めようと、書斎・研究室への入室をお願いした。机の周りには標本箱とムシピンなど標本制作用具が置かれていて、展翅しかけの蛾の標本や、綿の上に並べられたままの甲虫標本が目に付いた。虫に食われてはいけないので、とりあえず付近にあった標本箱の中に収納した。ここ数年は、八代市の昆虫調査を依頼されて採集と整理をされていたし、甲虫ではハムシ類のまとめをしたいと言われていた。机の周りにはそれらの標本がうず高く積まれ、書架には八代市の記録を集めた手書きのファィルが10数冊並べられていた。

「本と標本でこの家は潰れてしまいそう。」と、奥様が漏らされていたが、実際、10数年前に一泊して標本を見せて頂いた折、標本箱の数が、ドイツ箱、インロー箱、合わせて2千箱を越えると言われていたので、現在の数はどれくらいになっていたろう。標本箱には全て一連番号が付されていて、大きな台帳片手に、どの種がどの箱に入っているか記帳していると言われていた。お仕事が税理士さんだったので、記帳はお手の物であったのだろう。

数年前に、「いいかげんに、熊本県産昆虫目録をまとめられたらどうですか?」と話したときも、「まだ調べが済んでいないのが山ほど有る」と言いつつ、「全て帳面に付けているから、これを印刷しさえすれば良い。」と、ファイルを見せられた。「本人は100まででも生きるつもりだったようで・・・」とは、奥様の弁である。「あんなふうにして、一生虫で楽しんだんだから。」

残された問題は、大量の標本と文献の今後である。専門家が同定した、熊本県産昆虫のほぼ全てのファミリーがそろっていると言った意味で、九州の虫屋にとっては、最も貴重な標本である。全体として九州内のしかるべき施設に保管できて、九州の虫を調べたい人が、自由に調べられる環境が整うことが最も望ましい形であるのは論を待たない。

最初に述べたように、大塚さんは熊本県の昆虫相解明に全力を傾け、実際に、5000ページ以上の記録を出版されている。会誌を繰っていけばその全貌を見ることが出来るのだが、できれば、1つのまとまったものになっていて欲しい。例えば、ハムシ科1つとっても、熊本県から何種記録され、どの種の記録がないのか、調べることは容易ではない。可能なら、せめて、会誌の内容を全て電子化し、検索や集計ができるデータベースにしておきたい。それが、大塚さんに対して、せめて私ができることではないか、かつての、標本箱の風呂敷包みを抱えた姿を思い出しながら、今、そう考えている次第である。 合掌

  大塚 勲氏               
  熊本昆虫同好会主幹       
  大正12年8月12日生まれ


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